第五話 彼女は何故、彼を撃つ仕草をしたのか?




「はあ、はあ、はあ・・・」
全力で走って、息が切れてしまった。

気がつくと、船の甲板に出ていた。冷たい風が頬を横切る。もうすぐ春だが、夜の海上は思ったより寒く、肌を刺した。
風上を見ると、人影がある。今度はぎょっとしなかった。船の燈す明かりがその人を浮かび上がらせてくれていたからだ。俺が最も信頼している人の姿を。

「ヒロ・・・」
話し掛けようとして、足を止める。
微動だにしないヒロの姿。その顔に、光るものがあった。
俺は動けなくなり、目を凝らしてヒロを見る。
その右の瞳から、大粒の涙が一筋、零れ落ちた・・・・・・・。
涙の粒は、船の光を受けてきらきらと輝き、頬を伝って顎で一度とどまり、何かの制約から解き放たれたかのように、やがてぽとりと海の中へ落ちていった。

その一部始終を見ていた。何も、言えなかったし、何も出来なかった。
どうして、泣いているのだろう?当然、傷ついたアリシナを想って・・・・・・彼女のために、彼は涙を流してくれている、はずだ。
本来ならば、非常に悲しく・・・美しいはずだった。
けれど、今の俺はどうかしているのかもしれない。
あの涙に、ヒロの「狂気」を感じたのだから。


「タカ。」
唐突に声を掛けられて、身をひく。
ヒロが俺に気づいた。すぐに右手で涙の筋を拭う。俺はつい、思ってもいないことを口にした。
「姉さんの・・・アリシナのために、泣いてくれているの?」
多分、違うだろう。何故だか確信に満ちた思いが俺を支配する。
ヒロは、甲板の手すりを掴んだまま、そっと微笑んだ。
その微笑は、一体なんだったのだろう。優しい、笑顔だった。けれども、それ以上に寂しい顔をしていた。


「・・・・・さっき、レビンを見たんだ。」
俺は思わず話し出していた。ヒロはすっと身を引いて、俺の立場所を作ってくれる。彼のすぐ隣に立ち、同じように甲板の手すりに寄りかかった。
「あいつ、犯人が誰だか知ってるって。」
ヒロの反応はわからない。知りたくなかった。彼と、こんな血なまぐさい出来事とを、関連させたくなんかなかった。綺麗な世界に居て欲しいと、心から願っているのだ。
「でも、自分の口からは言えないって。」
ヒロが何か言葉を返すことなど、期待していない。むしろ、何も言って欲しくなかった。だからなるべく短い単語で、次々に言ってしまいたかった。
けれど、ヒロは俺の言葉を遮った。
「あいつは、そういう奴やから・・・」
そして、続けようとする俺に向き合うと、そっと肩に手を置かれた。まるで幼い子をあやすかのように。・・・それにしてもなんて冷たい手だろう。ずっと、甲板に居たのだろうか。
「タカ、こんなところにいたら風邪ひくで。」
それはこっちの台詞だ。
ヒロの手を掴むと、やはり氷のように冷たかった。
「ヒロこそ、こんなに冷たい・・・痛っ」
急に痛みを感じて、手をひっこめた。掴んでいたヒロの手を見ると、銀色の指輪が光っている。ずっと寒いところに居ると、金属が最も冷えて冷たくなる。あまりに冷たいので、痛みまで感じてしまったのだ。
「ごめん、平気?」
心配してくれるヒロ。その優しい声は、あのころのままだ・・・

「あのころのままだね。」

「え?」
「その指輪。俺が、随分前に・・・貧乏で、酒場の演奏しかできなかったころに、ヒロにあげた指輪。あのころのままだね。」
銀製品は、バンドの装飾品としては欠かせないものだ。けれど俺たちは貧乏で、とてもそんなたいそうなものを買うことができなかった。
そんな中、ヒロの誕生日にどうしても買ってやりたくて、店長に給料の前借りをして買ったものだった。どうしてあんなに指輪にこだわったのだろう。今となっては我ながら謎だ。
ヒロは心から喜んでくれて・・・ギタリストが演奏するときに、良く見えるのは右手だから、と敢えて右手の人差し指にはめてくれた。右手の人差し指というのは普通、最も使う指だから指輪には不向きとされる。だからエンゲージ・リングは最も使わないとされる左手の薬指にはめるのだ。
俺には、ヒロのそんな心遣いが嬉しかった。

ふと思い出す。内ポケットの中に突っ込んだままの重たい拳銃を。右手で服の上から触れる。固く、確実な感触。


「ヒロ・・・俺はコージを犯人だと思った。」
決して言ってはならない事だと思っていた。けれども、誰かに言って、吐き出してしまわないと俺は妄想に取り付かれてしまう。そんな切迫した気持ちが、言葉を紡ぎだす。
「コージの右手が、震えていたんだ。それに・・・まるで贖罪してるみたいな・・・青白い顔で、コージが立っていた。だから。」
船風が吹き付ける。すべてを運んでくれればいい。風上にいるヒロに、思いの全てを吐き出してしまったら、この恐ろしい思いは消えるだろうか?
「でも、違う・・・違うんだ。ひょっとしたら、シューセが犯人かもしれない。シューセが、アリシナの写真を燃やしていた。どうしてなんだろう。しかも、真っ二つに破られたアリシナの写真を、怖い顔をして燃やしていたんだ。
いや、違う・・・違う、違うんだ、レビンが。レビンが、座って俺を睨んでいた。手には銃を持ってて。それで、俺は・・・・違う、みんな違う。」
こみあげる思い。涙が溢れる。アリシナが目の前で血を流して倒れても、一筋もこぼれなかった涙が、今になって後から後からこぼれてくる。どうしたらいい。すべての思いが俺を包み込み、どうしようもなくなってしまう。

「違う・・・ヒロ、分かってるよ。俺の、俺たちの仲間がそんなことするわけがないんだ。」
ぎりぎりの場所に、俺は居たのかもしれない。そっと誰かが手を差し伸べてくれないと、この真っ黒に深い海の底へ飛び込んでしまう。そんな場所に。
仲間を疑っている自分。何も信じられなくなっている自分。大切なものが、後から後から崩れ去っていく感覚。愛しいものすべてが、消えていく・・・
「タカ・・・。」
ヒロの手が、差し出される。その手を掴んで、抱き寄せて、声を上げて泣いた。
ヒロは何も言わずに黙ってそこに居てくれた。



汽笛が鳴り響く。
地中海を流れる熱くて激しい風が、俺たちの間をすりぬけていった。


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その夜、夢を見た。
まだ小さい頃は本当によく夢を見る子供だった。しかも悪夢ばかりにうなされ、真夜中悲鳴と同時に起きるのだ。顔も覚えていない・・・幼い頃死んだ母親が、心配して朝まで一緒にいてくれた。



その夜見た夢は、久々に見る悪夢だった。


アリシナが、撃たれた時に着ていた真っ赤なドレスをまとっている。
何の音も聞こえない、暗くて寒い船の上。俺は真っ直ぐ前にいるアリシナを見ていた。
アリシナが、歩く。
ここはどこだ?青白く、暗いコージの部屋の中。アリシナは鏡の前に立つ。
立って、鏡を見つめ・・・そのまま部屋を後にした。

俺は急いで追いかける。
音も立てず、裸足で歩くアリシナは異様に速く動いた。俺は駆け出す。
次に訪れたのは、シューセの部屋だ。主の居ない暗い部屋。テーブルの上にある灰皿にはまだあの時の煙がくすぶっていた。
アリシナは、そっとシューセのベッドに頬を寄せた。
それからすぐに立ち上がり、歩き始める。

今度は長く長く歩いた。階段を上り、食堂を通り抜け、月明かりが零れる廊下へと。
そうだ、レビンと会ったあの廊下。アリシナは素通りする。一回だけ、その場でくるりと身を翻して回った。それだけだった。
そして裸足のままで、甲板へ向かう。
甲板は凍えるほどに寒い。冷たい風が吹き荒れる。


確かそこにはヒロがいたはずだ。ヒロが、一人泣いていた。

その場所にアリシナが立ち、動きを止める。人差し指を突きつける。
険しい顔。怖い顔をしている。駄目だ。ヒロを殺すな。やめてくれ。
アリシナは手で銃を形作った。
狙いを定める・・・・・・・・・・・・



ズキュウウウウウン




目が覚めた時、まだ辺りは暗かった。
身体を半分起こすと、背中がぐっしょりと汗でぬれている。
あれは果たして夢だったのだろうか。それとも、アリシナの霊に出会ったのだろうか。
そして。





―――――彼女ハ何故、彼ヲ撃ツ仕草ヲシタノカ?―――――





子供の頃とは違い、傍らに母はいない。





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