第七話 情熱の風




「タカ、このアホ!!」



立ちすくんでいた俺の顔面に、シューセの拳骨が飛んだ。歯根が軋む音と、吐き出される血の味が、俺をリアリティに引き戻す。
気づくと、ヒロの身体はまだ床に横たわり、傷口から噴出す血を、レビンとコージが一生懸命布で押さえている。客席は遠巻きに俺たちを見ていた。
よろめきかけた体を立て直し、俺はやっとのことでヒロに駆け寄ることが出来た。
蒼白の顔に、手を当てる。まだ息をしている。医師が飛んできて、手際よく作業を始めたが、俺はヒロの側を離れられなかった。
震える唇で、小さな声しか出ない唇で、何とか言葉を伝える。
「ごめんね、痛いよね、辛いよね、苦しいよね。ごめんね・・・ごめんね。」
ヒロの耳元で、懸命に言葉を繋げる。


パン!

鋭い痛みを感じた。
虚ろに見ると、レビンが居て、俺の右手を思い切り叩いていた。思わず握っていた銃を取り落とす。カラン、カラン、カラン・・・黒い塊が床を滑った。
無意識に、銃口を自分に当てていたことに気付く。自分の右手が、自分のこめかみを向いていた。レビンは誰よりも早くそれを察していた。そして、目を充血させ、鋭い目つきで俺を睨んでいる。
「もう、充分や・・・もう、ええやろ?これ以上血を流すな!!」
小さなレビンが、俺の胸倉を掴んだ。
「ほら!」
レビンが掴んだ胸倉を引っ張り、ヒロの顔を見えるように荒っぽく俺を振り向かせた。
ヒロは、ほんの少し唇の端を持ち上げて、笑っていた・・・


「・・・・・・タカ・・・・・・いいんや・・・・・・。」


淡い蛍のような光が、一瞬ヒロの瞳に煌き、そして瞼はゆっくりと閉じられた。




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「あと1時間で、イタリアに着くって。」
レビンの声が響いた。明るい陽射しが部屋に入る。もうじき船が陸へと到着する。
一晩中、横たわるヒロの側にいた俺は、その声に顔を上げた。・・・長い、永い船旅だった。
「・・・タカ、しっかりしいや。イタリアに着いたら、コージも医者に診てもらえるしな、依存症も治るやろ。」
ぽん、と肩に置かれる力強い手。シューセが落ち着いた眼差しでそこにいた。
コージも、すぐ側でうなずく。


依存症・・・そう、コージの手は、麻薬に犯されていた。本人が知っていて使用した麻薬ではない。
半年ほど前のある日、たまたま手の調子が悪く、腱鞘炎か何かかと思っていた矢先、良く効く薬だと手渡されたものが、実は恐ろしい弊害を招く麻薬であったのだ。
コージはそれと気づかずに毎日服用し、確かによくなったような気がして・・・(当然だ。身体の神経を麻痺させて気持ちよくさせるのが、麻薬の魔力なのだから。)常用した。
気がついたら、麻薬無しでは精神がおかしくなるほどの中毒症状を発し、手は絶えず震え続けたという。
そのことに最初に気づいたのは、シューセだった。そこで麻薬を渡していた人物にそれとなく近づき、尻尾を掴んでみせると決心したという。普段やらない色仕掛けや、言葉騙しの誘いを繰り返し、相手をその気にさせたはいいが、予想以上に相手がシューセにのめりこんだ為に、酷く苦心をしたらしい。元々好みではなかった、と毒づくシューセの奔放ぷりに思わず笑いが零れる。
レビンは暫くの間コージの異変だけに気づいていたが、コージが徹底して隠したために、深く知るのはつい最近のことだったという。


ここまで言えば分かるだろうが、コージに麻薬を手渡した人物こそがアリシナである。
アリシナは、不法に各地から密売人を乗船させ、見返りとして麻薬を受け取り、それを各地で売って利益を得ていたという。
一人で行動することの危うさから、俺を近くへ引き寄せ、ついには仲間たちをも船に乗せることに成功した。さしあたり言うことを聞かせやすくするためには、誰か一人を麻薬漬けにするのが手っ取り早い。たまたま、手の支障を来たしていたコージが標的になっただけで、他の誰でも良かったのだろう。

「確証がつかめるまでは、タカに言うわけにいかへんと思ったんや。ごめんな、せやかてお前、えらい幸せそうやったからなあ、言いにくいやん、こんなん。」
ヒロは、そんなシューセ達から一人離れた所に居たという。けれども、密やかに気づいていたのだ。
アリシナの持つ毒性に。
けれどもヒロは、そんなことをおくびにも出さずにいた。とりわけ俺の前では、いつも穏やかに…信頼しきっている姿をしていた。けれども。
けれども、知っていた。そう、知っていたさ。ヒロ、お前がどんなにアリシナを警戒していたか。コージだけではなくて、他の誰かをもその魔の手で絡めることを、どんなにか恐れていたか…俺は、知っていた。とっくの昔に、気づいていた。
人差し指のシルバーリングを撫でる。こんなに昔からの仲なんだ、分かるに決まっているじゃないか。


分かってた。
分かってた。
みんな・・・・・・分かっていたんだ。

「…タカ。」
そっとかけられる、優しい声。仲間の声。そんな、優しい声で話しかけないで欲しい。誰も、誰も、こんな俺を見ないで欲しいんだ………
「ごめんな、みんな。」
俺はやっと一言が言えた。
それと同時に、両の瞳から、涙が溢れた。あとから、あとから…とめどなく流れる熱い涙。





あの日…アリシナの胸を銃弾が走ったあの日、最初に銃を手に入れたのは、この俺だった。

事件当日、俺は不法に侵入した者と廊下でぶつかった。いや、不法侵入者であるとはその時気が付いてなどいなかった。見知らぬ乗客が、自分にぶつかってきて何かを落とした。何だろう、そう思って拾い上げたそれは厚い布がかかっており、その場ではそれが何であるか気づけなかった。おまけにぶつかってきたその男は、俺が声を掛けると大慌てで逃げ去ってしまった。その不可思議な態度に、追いかけることができず、「落し物係、なんて居たかなあ…」と記憶をたぐっていた俺。
その上演奏を間近に控えていたため、落し物については中身の確認もせずにポケットにしまいこみ、会場へ向かってしまった。
しばらくデッキで空を見上げて…普通なら、タバコを一服するところだが、俺はタバコを吸わない…そのとき、気づいたのだ。厚い布をゆっくりゆっくり捲って…出てきたものは。出てきたものは、妖しく光る拳銃だった。俺は小さな叫び声をあげた。

何だ、これは。何故こんなところに…確かにそう思った。そう思ったのだが、後ろの廊下を歩くガードマンの気配に、思わず拳銃をポケットへしまいこんでしまった。
あの時、拳銃をガードマンに渡してしまえばよかった。そうすれば、悲劇は起こらなかったのかもしれない。
けれどもほんの一瞬・・・・「こんなものを俺が持っているのがバレたら、船を降ろされるかもしれない」そう思った。偶然拾ったのだ、そんな言い訳を聞き入れてくれるだろうか?アリシナの単なるバックである俺の言葉を、聞いてくれるだろうか?
一定のリズムで遠ざかる、ガードマンの足音。
凍りついたように、デッキに立ち尽くした俺…



演奏中に電気が消えたのは、偶然ブレーカーが落ちたからだという。
そうか、それで思いもよらない時に真っ暗になったのか。ブレーカーの説明をする乗組員の声を聞きながら、おぼろげな意識で思った。
思いがけず真っ暗になった。真っ赤なドレスだけが、視界の中にあった。
赤いドレス。
踊るアリシナ。
乗客のすべてが、彼女を見ている。
誇らしげなアリシナ。
美しくて、気高くて…そして、憎くてたまらない。





はっと気づいたその時、俺の手はポケットをまさぐっていた。黒くて重い物体に、手が触れる。
夢なのか現実なのか。おぼろげな意識の中で、銃を構えていた。
目に映るのは、真っ暗な空間と、赤いドレス。
回る、回る、回る……



ズキュウウウン



カチリ。



気づいたとき…手のひらにあったはずの銃は無く、赤いドレスに赤い血を流したアリシナが横たわっていた。手のひらのリングが銃の衝撃を受けて、痺れていた。
あの時銃を手にしたのが、きっとレビンだったのだと思う。彼は背後から、一部始終を見ていたに違いないのだ。彼は確かに、最初から犯人を知っていた。そして、すぐに銃を取って…大切な、太鼓の影に隠した。


そうだ・・・そうだったんだ。


犯人は、この俺だ。










「知ってたんやな。」
静かに、シューセが言った。
「アリシナの事・・・彼女が何を売って生計を立てていたのか・・・知ってて、俺たちに言えなかった。とてもやないけど、言えなくて悩んでたんやろ・・・?」
ああ。
全身から力が抜けるのが分かった。
シューセだけではなくて、コージも、レビンも・・・同じ表情で、俺を見ている。
「・・・・・・知らなかったよ・・・知ってるわけがない。俺は単なる、自己中心的で、利己的で、人の命なんか何とも思わない殺人鬼だっ・・・・・・」
涙が、溢れてくる。止まらない、止まらない・・・





回る、回る、回る・・・回るアリシナ・・・・・・

『やっぱり、タカだけには言っておくわ。』

赤いルージュを引きながら。舞台に立つ直前の光景だったろうか、無邪気なアリシナの声が頭の奥深くで響き渡る。船に乗り初めてから、あれは確か3度目の舞台。

『これ。・・・見られてしまったから、知ってる思うけど・・・タカの思っているとおりのものね。なんなら使ってみる?
・・・・・・・・・・冗談。』

怪しげな煙がたちこめる室内で、半分目を閉じたアリシナが足を組んで座っていた。
『いやだ・・・お願い、そんな目で見ないで。こうでもしないと、母さんを亡くしてから生きていけるわけ、ないじゃない。
私のこと、心配してくれてるの?・・・優しいね、タカ。でもだいじょうぶ、絶対ばれやしないわ。タカが誰にも喋らなければ・・・。
分かるだわよね?一言喋ったら、私も、タカも、仲間たちも。』

目の前に広がっていた幸福、未来、全てがぐらぐらと揺れている。仲間たちの笑顔が、揺れている・・・・

『ねえタカ、・・・ごめんなさいねこんな話。でも安心してちょうだい。タカ、何もしなくていいの。何もね、しなくていいのよ。
ただずっと知らない振りをしていれば良いの。私が困った時に、ちょっと手を差し伸べてくれさえすればいいの。タカは何も見なかった・・・何も知らなかった・・・・・・』

俺ハ 何モ 知ラナイ・・・・・・・・・・・・・

「何も知らない・・・・。知らないんだ・・・・。」

煙が漂う中、朦朧とする頭と視界。アリシナが二人にも三人にも見える。
アリシナは優しく微笑み、俺の頭を撫でた。
『ありがとう、タカ。これは二人だけの秘密よ。・・・ね、誰にも言っちゃダメ。それだけで、私たちの生活は保障されるのよ。安心して、暮らしていける。
誰にも迷惑、かけてないでしょ?だから・・・ね、安心して。』

でも。

けれども、彼女は俺を裏切って、コージを人質にした。

「許せない。コージを傷つけた。ヒロを傷つけた・・・シューセを・・・レビンを、みんな、みんな・・・」
許せない。許せない。・・・・一番許せないのは、彼女の言葉に騙されて、仲間に真実を告げなかった自分。彼女を撃った自分。・・・・ヒロを撃った自分。

崩れ落ちた俺の背中を、誰かが優しく撫でてくれた。
一体、何を口走っただろう、昨日から今日にかけて、一体何を。もう、何も覚えていない。俺はすっかり壊れてしまっていたから。





カチャリ。扉が開き、一人の医師が入ってきた。
「君たち…アリシナの意識が戻ったよ。」
医師の言葉は短く、すぐに扉は閉められてしまった。おびえているのだろうか、恐れているのだろうか、この俺を。続けて二人の人間を撃った非情の人間を。
誰も何も言わなかった。が。
「…良かったな、タカ…。」
ベッドの中で寝ていたヒロが、そっと呟いた。






「……精神病の一種ですね。」
小さな揺れる船室で、医師が冷静な声を出す。
「自分の犯した罪を受け入れることができずに、他人が犯人ではないか、と妄想する。その時患者はまさか自分が犯人であるなどとは、露ほども思っていないわけです。
果ては他人が犯人である、と信じて疑わなくなります。彼の場合、ヒロさんが犯人であるという妄想に捕らわれ、制裁を与えてしまった……」

血の通わない静かな声でそう続ける。
制裁?違う。ちがうんだ。ヒロは・・・

「ちが…」
「違います。」
俺が言うより前に、凛とした声が船室に響き渡る。ベッドに横になったままだったヒロが、必死に起き上がろうとしていた。すぐそばにいたシューセが、その背を支える。
「俺が犯人やと思ったわけではなくて…・・・きっと、タカは自分が犯人であることを知っていたと思います。タカは、自分を撃ったんです。」


一様に、不思議そうな顔になる面々。誰もヒロの言っていることを理解していない。
「そうやろ?タカ。俺を撃ったんやなくて…」
右手の人差し指にはまっているシルバーリングを、そっと撫でる。
「こいつをしてる人間を、撃ったんやろ?」
リングが、鈍く光る。
「…タカは、銃を撃った際に指輪の音が響いたことだけを、覚えていたんです。だから、指輪をした人物が犯人であると思った。指輪をしているのは、このなかで俺とタカだけ。しかもこれは、昔タカに買ってもらった、揃いのものなんです。
このリングをしている俺を見た時…タカの中で、何かがゆがんでしまったのか…。夕べから、自分の行為を、俺がしている行為だと錯覚している節がありました。昨日の夜、甲板で外を見ていた俺にタカが『アリシナのために泣いているのか』と聞いてきたんです。でも、俺はあの時泣いてなどいなかった。泣いていたのは、むしろタカなんです…タカが、泣いていたのに。きっと、アリシナのために。
それなのに。
…彼は、自分がしている行為と俺がしている行為の違いすら、分別できなくなってしまったんじゃないか…ずっと、そう考えていました。そして、今確信しています。
そうやろ?タカ。俺を撃ちたかったんやない。自分を、撃ちたかったんや。」
船室内を、シンとした空気が支配した。


俺はヒロの話す言葉を聞いて、初めて、夕べ自分が泣いていたことを思い出した。

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魔性の心を秘めて舞う、美しいアリシナ。
そして、二人の人間に銃口を発射させた俺。
いや、あの晩見たコージの妖気、シューセの憎悪、レビンの狂気。あの全ては、紛れも無い現実だった。
一体何が、あのどうしようもない激情へと駆り立てたのだろう。一体、何が。



イタリアが間近に迫る景色を、激しい風が吹く甲板から見ながら考えていた。仲間達と共に。
ヒロが、コージが、レビンが、シューセが…優しい顔で、俺の隣に立っている。肩に乗っている優しい手のひらは、誰のものか分からなかったけれど、嬉しかった。全員で肩を組んで、立っている。そんな気がしたから。






ああ、そうか。

ヒロが口を開けた。

ひょっとしたら。


目も開けられないほどに強く吹く、激しい風かもしれない。

狂おしく吹き荒れる、地中海の風がそうさせたのかもしれない。そうヒロが呟いた。








終わり
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